転法輪寺を本営とせる大塔宮

 

 奈良盆地に周辺の山間部より流れ来る小河川は、中央部にてほぼ一直線をなして

大和川となり、信貴山と二上山の狭隘部に吸い込まれていく。

即ち亀の瀬の急流となりてしぶき渦立つ岩肌が関西線の車窓からも望まれるわけである。

 大和川は古代水運の川であり、豪族文化育成の川でもある。

弥生中期以降の遺跡は概ねこの川の恩恵を被り豪族の根拠地となった。

葛城・蘇我・物部・平群の諸氏などである。

奈良盆地と河内平野を仕切る二上・葛城・金剛の峰は玲瑯と連なり動ぜるさまは、

往昔南北朝の頃における楠木氏苦節の赤坂・千早の諸城の西側より見るなれば、

聊か静寂に過ぎる感なきにしもである。

 この静寂とは即ち古代・葛城川。葛下川に多くの古跡を残す葛城王国の名残の故なのであろう。

 本論となりて往時吉野城を落ちられて高野山に向かう大塔宮はどの道を通られたか。

宮の行動は終始隠密行動が多く、突如として思わぬ地に現れたりもするが、

この折りは天川の大弁財天に立ち寄られた事が「南山雲錦拾要」に見える。

天川村、そして天川弁財天が南朝復権の本領の地となり、後村上天皇ほかの倫旨、令旨を

同村に多く保持せるはその故である。天川村は南朝公卿一党の安住として、

またここは霊峯大峰山への修験道の入り口でもあった。

 高野山で南朝志向の僧達にかくまわれたものの、やがてまた高野を脱して

次の史歴に見えるのが四ヶ月後の事、信貴山にひょっこりと姿を現すのであるが

何時の頃からこの信貴山を本営として密かに会旨を発し軍令を下していたものであろうか

一つの謎と云うべきである。

実は信貴山に至るまで、高野から金剛山上の転法輪寺において天下の形勢をのぞまれていたのである。この転法輪寺に就いては、概ねの史書には書かれていない。

 転法輪寺はこんにちでもある。正確には転法輪寺跡と云うべきかも知れぬ。

 元来、千早城・金剛山の地に関東の大軍を引き寄せる作戦の謀主は大塔宮護良親王にあった、と

するのは曽て南朝史家として光彩を放った故橋本徳太郎の見解である。

 戦略は護良・戦術は楠木として多数の要塞を構えたわけである。

当時、橋本徳太郎氏は数度に亘り、赤坂、千早、金剛の実地踏査を行い、殊に金剛山頂、転法輪寺の

史跡保存に就いて遺憾の意を表したが、金堂はその礎石のみ、寂々たる老杉の裏に残されて

正に廃墟化されようとして居る、とあり、金堂の中心、礎石の間には白木の太い杭が立てられて葛城神社再建という墨痕が鮮やかに読まれる、とある(史跡名勝天然記念物昭和8年3月号)


 さらに転法輪寺の金堂が朽廃ちたのは遠い事ではなく、観心寺の現住職永島眞龍氏は

その修業時代を金剛山に送ったものである、として人里の眞中にある宇治の鳳凰堂ですら

明治初年は乞食の住家であった程であるから、人訪うこと稀に幽鳥深苔むなしく

日月をとざす高くして深き山上の寺は史的価値の如何に係わらず、

俗塵の汚染する処なく寂然として朽廃して行ったことは、南朝関係の寺院にふさわしい枯れように思われる−−−−

 と述べておられる。

 同時に金剛の表裏に就いても、千早方面を表とし奈良を裏とするならば裏の方面は

さらに顧みられて居らぬ。薬水、高天また東斜面の中腹にあった石寺から水のあたり

高間兄弟の名は史実に明らかであるが煙没している、旨を云い、この点、現今においても

金剛山に至るケーブルの道から山上の観光化せる史跡は全て千早側のもので、

事実、菊水紋の石塔の如きもあまた建てられている現状も、訪なう人のおおく見て心を寄せる

ところである。


 要は高野山を脱出して転法輪寺に本堂を置いた大塔宮を謀主とし、四条隆資を参謀として

大楠公の戦術を以って関東軍を退散させたものてあり、行方不明の大塔宮は決して隠遁したものでなく

漸くにして天下の大勢の判断に決着が見え始めた頃、

基地を信貴山に進められたのである。

 天下の形勢を見極める事斯の如くで、容易に天皇の誘いに応じて信貴山を降りてこなかった由縁も

そこに考えられるわけである。

 当時は後醍醐帝に深く取り入って謀を練る足利尊氏に対し、

永く都を離れ空白の期間をいかに挽回すべきか、容易な事とは考えられぬのであった。

 元来、大塔宮は史上に不明な時期多く、

また不明な行動の多い至って行動の把握しがたいお方である。

 不明の一時期は転法輪寺に居られたわけである。

そして葛城の修験道から大和川の亀ノ瀬の急流を渡って明神山に登り、信貴山に至るのである。

 転法輪寺に関しては「平凡社事典」に次の如くである。

「金剛山転法輪寺、現奈良県御所市高天

 金剛山の葛城岳山頂西方に所在する。真言宗醍醐派。本尊法起菩薩。古名は一乗山転法輪寺、

金剛山寺。役小角の開基と伝え、金剛山同様山岳宗教の霊地となり、奈良、平安朝以来、

天台・真言両系の修験の地(明治初年まで女人禁制)として発達した。

 葛城縁起(諸山縁起)には朝日嶽とも云う。

金剛山内外両院代々古今記録によると弘仁8年(817)に外院を修造、

仁寿2年(852)に宝殿を造営、元慶元年(877)外院までことごとく消失したのでなら興福寺別当忠孝が復興

鎌倉時代末期に長香が中興云々」

 いにしえの由緒が知れるわけである。


 葛城古道の南朝史

 葛城道は神の道である。 

 神の里は、奈良盆地の、山ノ辺・高市等で、葛城の道は神の道であるから史跡は多くみることは

できない。地霊である。其の風土に宿す古代が時として川原に咲く曼珠沙華を往古の想いに彩り、

其の辺り求むれば路傍に石仏の姿の並ぶを見ることが出来るのである。

 葛城の道は小石仏の道でもある。時代を忘れた石仏であり、何を語るものか定かではない。

 二上、葛城。金剛と背峰が連なり、河内の国と区切られている。

河内は南朝の頃、楠木氏を中心とする南朝忠臣の戦歴の場として、千早、金剛の諸城の名は瞭かであるが、背面、東側の葛城地は如何であったろうか。

北条軍の攻撃は大和側からも当然あったはずであるが、多くそのことを云わない。

ただ、幾多の表情薄き石仏が南朝の悲哀を留めるのみである。


 葛城山の神威は古代の葛城王朝の権威を示す如く、東方の山辺の道あたりの崇神王朝の史跡あたりと対峙している。

崇神自体、神武以降の欠史八代の神々(天皇)の後に顕現した王朝の始とされるもので、

その他、高市辺りに群在する古墳群の源祖ともいうべきである。

葛城古道はそれら奈良盆地と一望して君臨した古代王朝であるが

雄略の頃に失権して八色の姓には名を残さない。要するに埋没したもので、大体に没落したものは

後世にその名遺跡を留めることはすくない。


 葛城一言主の神は雄略天皇を一言の元に一喝して自らが支配者たることを証した。

しかしその後、名を失わない葛城王朝は多くの天皇にその血脈を残しながら伝わる所が少ない。


 葛城古道の石仏は南朝武士のゆかりである。

 九品寺の裏山の千体地蔵は「身代わり千体地蔵」とも呼ばれ

南北朝時代に殉じた武士の慰霊であると云う。

何人が奉納したものであろうか。安山岩質の石仏は概ね仲良く似ていると云った感じであり、

二上山の麓から信貴山にまで点々と及ぶ。信貴山中、奥ノ院に向かう大谷池の傍らに在る

宝青院は関西に少ない大塔宮の慰霊を弔う為の寺院であり、医学博士、青木カズノ女史の創建によるものであるが、この地より88体の同形の石仏が発見された。松永禅正、筒井氏以前の南朝由来の地霊の地であったわけである。曽って、私と行を共にした安井久善博士(日本大学名誉教授)は九品寺のものと同一だと考証された。


 わずかに石仏に南朝の面影を残す葛城の地、しかし調べてみるとやや古代豪族の末裔の存在が

南朝に組して葛城、金剛の東を抑えていたことがわかる。

 葛上群の南党は、概ね春日社の国民へ(興福寺の衆徒と対す)の流れで

越智氏も白人神人と称せられて俗体の武士であり、楢原、吐田、倶戸羅などが挙げられ、

春日若宮の流鏑馬などの記録に見える。

これらは逐次結合して筒井氏を中心とする戌亥党や越智氏を中心とする散在党など。

國人として領主層を形成してゆくこととなる。

 南北朝は代約50年 楢原吐田以下、猛勢の輩をもって東大寺を襲った。

一乗院は南朝方で、当時、吉野においては護良親王が修験の徒を律してあなどりがたく、

然して楠軍と通する険山越えの水越峠は重要であり、護良親王は援助して運用路を確保したのは

葛上郡の武士であることを知らねばなるまい。


 貞治4年、高師直が吉野を攻撃し蔵王堂ほかを焼討ちした際、さらに宇智郡より葛上郡を経て

平田荘に向かい高田に至る折りに、宮方群勢並び野伏等数千騎が現れ、

師直軍と風森、巨勢河原、水越に戦って伏見寺、高天寺、山田寺が焼かれた。

 やがて南朝次第に衰滅の中に、興福寺の大和支配は武士の対立関係を阻止、

私闘の中止などの申し渡しがあったがなお割拠して反幕を図るのである。

暫くして応仁の乱の混乱により畠山に拠る楢原・吐田氏。倶戸羅氏は越智氏・古市氏と共に

畠山義就の側につき分裂してしまい、南朝の流れとしての名跡を留むべき家歴を残しえず、独自の

立場の重要性から、小規模荘園的な在地武士の存在と化していったのである。

かれらはそしてまた越智氏など有力武士の配下とも成り果てるのである。


 南北朝以降は永禄2年の松永久秀の大和進出、

そして永禄12年には楢原氏が御所庄に一向宗の道場をおいたことにより興福寺の怒りをかい破滅せしめられて名族楢原氏の命脈は終焉を見て、以降、戦国の世に大和武士の名門は相次いで名を失って

葛城山麓の南朝史はその綴られるところがなく、千体の地蔵として大和盆地の王土、史跡に漠然とした眼を放ち乍ら葛城のよき古道ともなり、気を張らない安らかな景観を我らに与えてくれるのである。














                                葛城の道 





山地 悠一郎